2007年10月22日月曜日

有松・桶狭間のまつり

 昔、有松の氏神は桶狭間神明社。桶狭間神明社の祭りが有松・桶狭間の祭りで、祭礼は例年8月16日(陰暦)と定められ、寛文年間(1661~72)のころから行われていました。この神明社の祭りに出る傘鉾が、大高、鳴海の傘鉾とともに熱田まで尾張藩世継に見せるためでかけたと伝えられている。祭りはふるまい酒が特徴で、獅子をかぶって町中を回り奉納馬(馬之頭)も出るなど、有松・桶狭間の祭りとして盛大におこなわれていた。1798(寛政10)年、有松に天満社が造営されると神明社は本宮と呼ばれるようになり、有松の祭りの中心は絞りで発展する有松天満社へと移ったが。桶狭間神明社でも祭りは開かれ、天満社の祭礼には桶狭間が参加し神明社の祭礼には有松が加わるなど相互に参加して祭りを盛り上げた。1933(昭和8)年の協議で桶狭間と有松がそれぞれで祭りを行うようになった。
 桶狭間神明社は600年以上前に人が住み着いたころ建てられたといわれている。桶狭間の戦いのときには、今川義元の家臣・瀬名氏俊が戦いに勝つように祈願したといわれ、氏俊が酒を供えたと伝えられる桶が宝物として残っている。元禄年間(1688~1703)尾張四代藩主徳川吉通が知多郡を巡行の途中で神明社を訪れ参詣の記念に植えたスギ2本があった。1860(万延元)年の台風で倒れ、村人が惜しみ神木として保存するとともに二代目を植えたが再び枯れ、現在は三代目が本殿前で元気に育っている。祭りは各町内の神輿や梵天、傘鉾、音頭台、猩々が町中を回り神社前に参集。一斉に坂を駆け上がって神社に乗り込み祭りをいっそう盛り上げる。境内では神事のほか神楽・大太鼓の奉納や餅投げも行われる。
 天満社の祭りは絞りの盛衰とともに返還はあったが、近年は1973(昭和48)年に名古屋市文化財に指定された「布袋車」「唐子車」「神功皇后車」の山車3台が、からくり人形を踊らせたり、筆を手に文字を鮮やかに書かせたり。華麗な絵巻をくり広げながら町内を曳き回る。夜のとばりが降りると山車の250個の提灯にろうそくが一斉に灯され祭りも最高潮に。人々は祭囃子に乗ってからくり人形が描く「月」や「天」の文字に酔いしれる。「布袋車」は1677(延宝5)年に造られた名古屋の玉屋町の山車、1891(明治24)年に東町の有志が寄付を募り譲りうけた。人形ははじめ布袋和尚の袋の中から二人の唐子が飛び出し、一人の唐子が玉を持って戯れ、もう一人が玉をくれと手を出すと「あかんべー」をするからくりだった。1768(明和5)年に玉屋庄兵衛の作といわれる文字書き人形となり、4体の人形(采振り・文字書き・唐子・布袋)がからくりを披露する。緋の大幕は1812(文化9)年の製作、正面に鳳凰と亀、右に猛虎、左に蟠龍の刺繍がされている。「唐子車」は1875(明治8)年に中町の有志が寄付を募り買い取ったものである。山車は天保時代(1830~42)の製作で、内海の小平治いとう豪商が20年の歳月をかけて造り上げたものといわれる。唐木づくめの構造で、青貝塗りの輪掛けなど凝ったつくりになっている。人形は真守作で采振り、文字書き、唐子の3体で構成されている。大幕は緋の無地で、水引きは白羅紗に金糸で波に鯉の縫い取りがされている。幕の房は珊瑚でできており、その留め金は上から松・竹・梅の順に象眼がなされている。「神功皇后車」は1873(明治6)年に西町の有志が名古屋市久屋町の大工久七の設計で製作した。最初は中国の武将、関羽の人形であったが、1895(明治28)の日清戦争のあと名工といわれた土井新七が製作した神功皇后と武内宿禰の人形に置き換えられた。前人形は大柄な采振りで舌をぺろりと出す独特のからくり。大幕は緋の無地で、水引き幕は渡辺崋山の次男、小華の下絵で芙蓉、水仙、牡丹、杜若を組み合わせた刺繍がされている。

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