2009年5月13日水曜日

復刻:みどり 名所ある記 鳴海城跡


 毎日新聞別刷り みどり 名所ある記 1978年2月15日号

 鳴海城跡

 如月(きさらぎ)。立春も過ぎ、ふきのとうも芽を出し始めた。春をはだで感じる日の昼さがり、鳴海の古城跡をたずねてみた。

 名鉄鳴海駅前、両側に商店が並ぶにきやかな通りを、旧東海道を横切り北へ歩く。旧道ぞいの花屋の店先に、スイセンやサクラソウなど美しい花が咲きこぼれ、ひなびたたたずまいに調和していた。

 道が大きく左ヘカーブする地点が鳴海町字城。地名の示すように鳴海城(根古屋城)跡である。正面が切り立った城跡は見上げた丘の頂きに赤い鳥居がのぞいていた。
 急な石段を上る。途中「根古屋城跡、東西約一三七米、南北約六二米、応永年間(一三九四~一四二七)安原宗範の居城のち廃城、その後永禄年中、今川の猛将、岡部五郎兵衛元信この城を守り、桶狭間の戦にはよく戦った。その後信長の臣佐久間信盛、城主となり天正の末廃城となる。昭和五十二年三月名古屋市教育委員会」の高札。
 三十一段の石段を上り切ると約二〇メートル四方ほどの平地があり、天満社が祭られている。

 栄枯見守った老木二本 佐久間信盛を最後に廃城

 城跡に老木二本。人の世の栄枯盛衰をじっと見守りながら風雪に耐え、生きながらえてきた。ふた抱えほどもあるムクとエノキのこの老木(名古屋市保存木に指定)は早春の風にさからいながら何か言いたげである。近くに鳴海城趾之碑と彫られた二メートルほどのいしぶみ。ここから見下ろせる西側道路を隔てた丘、現在、緑保健所が建っている周りも城跡である。保健所横は城跡公園となり子供たちが元気に遊んでいた。
 あたりは木々が多く、小烏のさえずりもさわやかである。日だまりで友幸ちゃん(二つ)を遊ばせていた鳴海町花井、野田勝美さん(三〇)は「今は寒いのであまり来ませんが、瞬かくなるとよく来ます。安心して子供を遊はせられますし、木が多く静かで、何か心が休まるような気がします」と話していた。

 この城跡の地の歴史は古く原始時代にさかのぼる。有史以前この地まで海が陸に入り組み、風光明美、漁業、農業または狩りをしながら人々が住んでいたといわれ、弥生後期の土器類、奈良・平安時代(七一五~一一九八)のかわらなどが数多く発掘されている。室町時代に入り応永元年(一三九四)に安原備中守宗範が城を築いて住んだが、応永二十五年(一四一九)宗範の没により廃城となった。時代は移り、戦国時代、この地が尾張と三河を結ぶ要所にあったため、信長の父信秀が古城を修理させ、山口左馬介義継に今川義元にそなえ守備させた。古地図によれは城郭は東西二つに分かれており、真ん中に堀があった。この堀跡が現在道路となっている。

 信秀の没したあと、左馬介は謀反を起こし、義元についたが、義元は左馬介を切腹させた。義元はその後へ岡部五郎兵衛元信を置いてこの城を守らせた。これに対し信長は丹下、善照寺、中島等の砦(とりで)を築いて対抗した。永禄三年(一五六〇)五月、義元は二万五千の大軍を率いて上洛への軍を発したが、桶狭間において信長に討たれたため今川方の城や砦はつきつぎと落ちた。しかし元信は屈せずよく戦った。信長は義元の首を丁重に僧を使って元信に返したため、元信は駿府へ帰った。
 のち信長の臣・佐久間信盛が城主となっていたが、天正三年(一五七五)信盛が刈谷城に移ったことにより廃械となった。

☆交通=名鉄鳴海駅前より徒歩三分 (文と版画・写真=淡河)

 鳴海城跡の石段~ひなびたたたずまいは市民のやすらぎに

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